Formula1:WilliamsF1チーム、元オーナー フランク・ウィリアムズさん。最強のプライベーターチームを作り上げた「車椅子の闘将」が見せてくれた、F1への愛情とこだわり・勝利への情熱。そして・・・最後のプライベーターチームの誇りを忘れない。
こんばんは。*Uran*です。
今回は、一人の偉大なF1関係者についての記事となります。
F1のパドックに、一人の「車椅子の闘将」と呼ばれるチームオーナー・監督がいました。
その人の名は、フランク・ウィリアムズ(Sir Frank Williams)。
レースを愛し、レースに生涯をささげた、F1史上3番目に長いチームを作り上げた偉大な元チームオーナーが、2021年11月26日、79歳でこの世を去りました。
1987年に、フランク・ウィリアムズさんはイギリス女王エリザベス2世からCBE(大英帝国勲章の第3階位)を受勲し、その後、1999年、Knight Bachelor(騎士団に所属しないナイト)に叙されています。
簡単に言いますと多少失礼ですが、英国女王陛下から「サー」の称号を与えられた一般の方と言えば分かりやすいでしょうか。俳優の アンソニー・ホプキンスさん(「羊たちの沈黙」のレクター博士と言えばお分かりになる方も多いと思います。)、彼もその一人ですね。
現在のいわゆる「ウィリアムズF1」の前にも、「フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズ」としてレース参戦していた時代があったようですが、その頃のことは*Uran*は全く分かりません。失礼に当たってもいけませんのでこの頃のことについての記載は控えさせていただきますね。
1977年に「ウィリアムズF1」、正式名称「ウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリング」を立ち上げた、フランク・ウィリアムズさんは、瞬く間に初勝利・コンストラクターズ・タイトル(チーム別年間総合タイトル)を達成しました。
チームは絶好調でしたが、フランク・ウィリアムズさんに不幸が襲い掛かります。
1986年3月、フランク・ウィリアムズさんは、フランスのポール・リカール・サーキットからニース空港へと走行中の事故により脊椎損傷の重傷、下半身麻痺となってしまい、それ以降車椅子での生活を余儀なくされてしまいました。
しかし、それでもフランク・ウィリアムズさんのレースへの情熱は消えませんでした。
その結果とも言えますが、ウィリアムズF1からは、数々のワールドチャンピオンを獲得したドライバー、デビュー後のちに他チームでワールドチャンピオンを獲得したドライバー、チャンピオンにはなれなかったものの、F1ドライバーとして超一流の実績を残したドライバーが数多く出ています。
*Uran*がリアルタイムで見たウィリアムズF1チームでのワールドチャンピオン獲得ドライバーは、1992年のナイジェル・マンセルさん、1993年のアラン・プロストさん、1996年のデーモン・ヒルさん、19997年のジャック・ヴィルヌーヴさん、また、ウィリアムズからデビューをして、のちに移籍先のチームでワールドチャンピオンを獲得したのが、ジェンソン・バトンさん、ニコ・ロズベルグさんですね。
また、同様に、*Uran*がF1を見始めた1992年以降で、ウィリアムズでF1初勝利を挙げたのは、1993年のデーモン・ヒルさん、1995年のデビッド・クルサードさん、1996年のジャック・ヴィルヌーヴさん、1997年のハインツ・ハラルド・フィレンツェンさん、2001年のラルフ・シューマッハさん、ファン・パブロ・モントーヤさん、2012年のパストール・マルドナドさんです。
(*Uran*がF1を見始めたのは、1992年のシーズン途中からですので、抜けているドライバーさんがおられたらすみません。)
こう見ますと、これだけでもやはり優秀なドライバーさんがそろっています。
また、ウィリアムズF1チーム自体が、フェラーリ、マクラーレンと並ぶ、古豪・名門チームです。
フェラーリはフィアットの子会社で、レースをするために車を売ると公言してはばからないメーカーですから、フェラーリの車は有名ですね。マクラーレンも台数限定ながら、マクラーレンF1という名称の車を販売しています。ウィリアムズのみ、自社メーカーの車を販売していないんですね。
しかし、そんなウィリアムズチームも時代の流れと資金力の都合もあったのか、自動車メーカー主体のチーム(ワークスチーム)に対して、なかなか太刀打ちすることが難しくなってくるようになりました。
また、チームのドライバーに明確なファースト・セカンドの位置づけをせず、「コンストラクターズ・タイトル優先」、「ドライバーズチャンピオンは独力で勝ち取れ」という方針を貫いた珍しいチームでもあったので、過去にもコンストラクターズチャンピオンを獲得してもドライバーズチャンピオンを獲得できなかった年が数回あり、この自由さが却って現在の自動車メーカー主体のチームに後れを取る原因の1つになったのかもしれません。
結局ウィリアムズF1が最後に優勝したのは、2012年のスペインGPでした。(優勝したドライバー:パストール・マルドナド<ベネズエラ>)
時は過ぎ、2021年、43年、739グランプリを出走したウィリアムズF1は、新オーナーのドリルトン・キャピタルへチームの所有権を移行、フランク・ウィリアムズさんを創始者としたウィリアムズ一家が完全にF1界から去ることになりますが、チームはウィリアムズ一家への敬意を表し、グローブの拠点に留まり、【ウィリアムズ】としてF1への参戦は続けるとのことです。
「ウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリング」を設立後、F1で、チーム通算 114勝、コンストラクターズタイトル(チーム別年間総合タイトル) 9回 ポールポジション128回、ファステストラップ133回、ドライバーズ・チャンピオン(ドライバー年間個人タイトル)7回の名門チームを作り上げた、フランク・ウィリアムズさん。
生粋のレース屋さんと言ってもよかったのではないでしょうか。
では、最後に、*Uran*の目から見た「フランク・ウィリアムズ」と、その人柄が分かるようなエピソードや1994年の出来事以降について、書かせていただき、この記事を終わりにしたいと思います。
F1を見始めた頃の*Uran*の中でのフランク・ウイリアムズさんの印象は、寡黙な職人気質で、少しドライなチームオーナーという印象でした。
現にウイリアムズF1チームは、ドライバーズチャンピオン獲得者でも翌年は契約しなかったりすることも多かったです。
また、これは賛否両論ありますが、コンストラクターズとドライバーズ、両方のチャンピオンを取るためであっても、そもそも、フランク・ウイリアムズ監督はコンストラクターズが取れればいいという考え方の様でしたね。
ですので、ドライバーズタイトル争いをしている方のドライバーが、Wタイトルを取るために、前を走っているチームメイトに「前に行かせるように指示を出して欲しい」と要求しても、「ドライバーズチャンピオンが欲しければ自力で取れ!」とチームオーダーを決して出しませんでした。(現在は、あからさまなチームオーダーは禁止となっています。)
しかし、もともとは凄く気さくな人物だったようで、自チームのドライバーが優勝した時などは、かなり優しい表情を浮かべていたこともありました。
*Uran*が見始めた頃のウィリアムズF1チーム、1992、1993年のマシンはまるでUFOの様でした。ハイテクが駆使され、フランク・ウィリアムズさん自身が、「ウチのマシンに乗ればサルでもチャンピオンになれる!」と言っていたくらいでしたのでかなりの戦闘力たっだことがうかがえます。
しかし、一番印象に残っているのは、1994年のアイルトン・セナさんのレース中の事故でしょうか。
この事故は世界中に衝撃を与えましたが、事故発生時は確かに激しくクラッシュはしていたものの、世界中のF1ファンは、事故直後のセナさんが動かなくても、「あのアイルトン・セナなんだから大丈夫だろう。気絶しているくらいで、悪くても数か所の骨折くらいなのではないか。」と楽観視していたのではないかと思います。
*Uran*も実はその一人でした。
しかし、ドクターヘリが着て、処置をしている最中に、セナさんの親友でもある、当時フェラーリのドライバーだった、ゲルハルト・ベルガーさんが現場にF1マシンで駆け付けますが、ベルガーさんは急いて駆け付けたものの、なすすべなく遠くでスタッフに制止されボーゼンと立ちつくしていました。おそらくその時に、ベルガーさんは何が起きたかを察したのでしょう。
その頃になって、TVを見ていたファンの方々も「かなりひどいのでは?」と思い始めたことと思います。そして、セナさんがドクターヘリに運び込まれた後、セナさんが横たわっていた場所には大きな血だまりが出来ていました。
TVの画面に映し出されるのは、赤旗でレースが中断中の中での不安そうなドライバーさんの顔。
特に、目の前でセナさんがコースアウトして壁に激突した瞬間を見た、当時まだ26歳のミハエル・シューマッハさんの顔は青ざめていました。
各チームのスタッフの方々もそうでしたが、その時のフランク・ウィリアムズさんの心配そうな表情が忘れられません。
結局、セナさんは関係者やファンの願いむなしくこの世を去りました。
その一報が届いたとき、フランク・ウィリアムズさんの目から、涙が流れていました。
その後、フランク・ウィリアムズさんは2つの重大な決心をします。1つは、開いたセナさんのシートに、当時まだテストドライバーだった若手のデビッド・クルサードさんを起用すること、そして、F1の人気回復のため、当時アメリカのインディーで活躍中だった、ナイジェル・マンセルさんに、インディーと日程が重ならない週末のみでいいからと、ウィリアムズF1からのF1出走を打診したのです。
マンセルさんも快く引き受けてくれたようで、数戦は、1994年にマンセルさんはF1へスポットという形で復帰し、暗く重苦しい雰囲気に包まれていたF1に明るいニュースを届けてくれました。(最終戦はしっかり優勝していましたね。)
その時からフランク・ウィリアムズさんはチームのマシンに一つのロゴを貼ってレースへ挑むようになりました。
それがこのロゴになります。↓
このロゴは、セナさんの甥っ子の、ブルーノ・セナさんがウィリアムズF1チームから出走するまで、マシンに付けられていました。
そして、2012年、ウィリアムズのマシンのノーズに貼っていたロゴを外すことにしたフランク・ウィリアムズさんはこのように語りました。
「もうその時が来たのだ。それに、今はブルーノがいる」
その後、セナさんがなくなって20年になる2014年に、再びマシンのノーズにセナさんの顔写真と追悼メッセージを添えました。
フランク・ウィリアムズさんにとっても。アイルトン・セナというドライバーは格別であり、また自らのチームのマシンで命を落としたことに対する心の痛みも計り知れないものがあったと思います。
この頃から、フランク・ウィリアムズさんはサーキットに姿を現すことが徐々に減ってきました。
肺炎を患ったりして入院していたこともあったようです。
それでも、来られるときはサーキットに来て、現場で最後まで「車椅子の闘将」を貫いていたようです。
また、フランク・ウィリアムズさんは、2011年3月11日の東日本大震災の時も日本へメッセージを送ってくれていました。
実際の映像は ↓ です。
ちなみにドライバーさんバージョンは、↓ です。
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今季最終戦では、各チームが、敬意と追悼の意を表明し、フランク・ウィリアムズさんのロゴをマシンにつけてサーキットを走ります。
きっとフランク・ウィリアムズさんも、天国で、全チームが自分のロゴを付けて走っている姿を見て、目を細めて喜んでいるかもしれませんね。
もしかすると、今頃は天国でセナさんと「今度こそ!」と天国でのF1グランプリで勝利を目指しているのでしょうか(^^)
あと、個人的なことですが、*Uran*はメニエール病がなかなか改善しない時、この方を思い出し、「自分よりもつらい状況にあるはずの方が、堂々と最強チームを率いていたのだから、めまいがすることはあっても、自由に動ける自分には出来ることはたくさんあるはず!」という勇気をいただくことが出来ました。
*Uran*同様、あなたのその戦う姿勢は、病気に苦しむ方々や体の不自由な方々にも、多大な勇気を与えたことと存じます。
それでは、フランク卿、安らかにお眠りください。
今回はこれで、この記事を終わらせていただきます。